ISOにとって「学生」って何でしょう?
ISO 9001で話題になったのは、「学生は顧客か?」という問題でした。
授業が製品であるとするなら、その製品の提供先である学生が顧客である、そういう考え方が一般的で、実際、盛岡中央高等学校(私立)の場合、顧客は「生徒・保護者・卒業生」、鹿児島大学水産学部(国立)の場合、顧客は「学生」です。一方で、国公立の学校は、税金で施設や授業料をまかなっている部分が多いので、「顧客は国とか地方自治体であるべきではないか」という「べき論」もありますが、現実に顧客をそのように適用している学校を、私はまだ知りません。
ISO 14001で話題になったのは、「学生は構成員か?」という問題でした。
つまり、「学生を、EMSを運用している組織の構成員として認めることができるだろうか?」ということです。大学でISO 14001導入の検討が始まった頃、「学生というのは学校にとって顧客である。だから、構成員は教職員とすべきだ」という考え方が強かったと思います。ですが、武蔵工大や千葉大などによる、学生を構成員としてEMSを運用させる事例が出てきて、「学生が構成員というのもアリなんだ」と周囲の意識も変わってきました。
ISO 26000は、どうでしょう。
「大学にとって最も大切なステークホルダーは在学生である」(アイソス8月号掲載予定記事)と麗澤大学の高巌教授が述べています。これは「学生は顧客か?」「学生は構成員か?」と違って、反論が難しい言辞です。組織がステークホルダーと対話を続けながら、社会的責任を果たすべく活動を行い、持続可能な社会を目指す、これがISO 26000のモデルですが、麗澤大学では、その「ステークホルダー」の中心に「学生」を据えています。なので、「学生基点」の取り組みなのです。こうなると、学生がノッテきます。学生がノッテくると、教員もノッテくるのだそうです。
このような移り変わりをみると、やっぱり、議論して「べき論」を言い合うよりも、やったもん勝ちですね。実例が「べき論」を超えていく感じがします。
学生が顧客とすると、なんだかなという気がします。
昔といってよいのだろうか?
昔は本社を顧客としたQMSなどは普通だったけど、そういった仕組みはおかしいという論が多くなり最近はJABのアクションプランでも認証範囲を適正にせよということになっている。
学生が顧客というと、先祖返りなのか、大学は遅れているのかという気がします。
私だけかな?
もうすぐ教育のお時間なので・・
「学生」と「学校」との関わり方でどのようにでもとも思います。
教室に座って授業を受けている<だけ>では、Qへの関わりは低いように思いますが、研究室に入り一緒に研究をする一員となれば関わりは大きくなるでしょう。
また、体育祭、文化祭などの行事を行っていく上での関わり、特に実行委員会は大きく関わってくると思います。
Eについては、「紙ごみ電気」だとしても、授業を受けるだけでもかなりの部分で関わってくるでしょう。それは、小売業のお店と顧客という関係よりも大きいと思います。
学生という肩書はいろんな面をもっていて、どのように、どれぐらい「システム」に関わっているかで、顧客にもなるし、組織の一員にもなるし、ステークホルダーにもなるのではないでしょうか。
「学生は顧客か?」それとも「学生は構成員か?」はたまた「学生は何者か?」という命題は、「何を目的にどのようなシステムをデザインするか?」という問いと同じものではないか?、と思いました。
この命題への答を導くには、「顧客は誰か?」という“もしドラ”風味の命題と同様に、建学の志(こころざし)=ポリシー(JIS訳では方針)によって様々な様相(別名:多様性)があってしかるべきではなかろうか、と思います。
生物多様性だけでなく、規格適用の多様性が尊重されることを切に願う次第です。
<昔は本社を顧客としたQMSなどは普通だったけど……
いい類推だなぁ。確かに組織内顧客という点では、似たような関係ですね。気づきませんでした。
<どのように、どれぐらい「システム」に関わっているかで、顧客にもなるし、組織の一員にもなるし、ステークホルダーにもなるのではないでしょうか。
結論は、確かにそうですね。
私としては、どのように、どれくらい「システム」に関わっているかが、時代によって変わってきていることに関心がありますので、あのように書きました。
「規格適用の多様性」って、リスキーで、いい言葉ですね。
幼少の頃、銭湯に行ったとき、湯上がりに父から「なんでも好きなのを飲んでいい」と言われたので、飲料水の陳列棚からコーラを取ろうとしたら、「コーラはいかん! 歯に悪い!」と怒られ、「なんでい! なんでもいいと言ったくせに」とカチンときたことを覚えています。
「組織で決めろ」と規格に書いてあるので、組織で勝手に決めると、「それはいかん! 規格の意図ではない!」と言われる可能性があるのが、この世界ですから。
「ISOにとって」というフレーズに違和感がぁ~。
この場合の「ISO」は、国際標準化機構という団体ではないことは文脈から明らか。
となると「ISO規格にとって」ということになる。ISO規格には、顧客などないはずである。
つまり、このブログ記事のお題は、本来は、
「(ISO規格において)大学にとって、学生は顧客か」とすべきでしょう。
大学にとって、学生を顧客と考えるべき状況はあるでしょう。
教授が学生に教えるあるいは指導する際に、教授は学生を顧客と考えるべき場合があるでしょう。とはいえ、常に顧客とすることもない。
大学は、学生を構成員と考えるべき状況もあるでしょう。
受験生をはじめ社会全般を顧客としたら、まさしくそうでしょう。
企業その他、就職市場を顧客と考えたら、学生は製品かも?。
まちがいないのは、大学にとって学生は、
重要な、おそらく最も重要なステークホルダーであることに、まちがいはないと私は思います。
ところで、予備校にとっては、学生(予備校生)は100%顧客のように思います。
余裕のない時に書き込むと意図が伝わりにくいですね。
申し訳ありません。
>時代によって変わってきていること
というのもあると思いますが、「学生」と「組織=学校」の関わり方は他の組織と「顧客」との関わり方とはかなり違うように思います。
学生が学校に来て授業を受けて帰る。という活動では、商店に買い物に来て帰るという役割程度の関わりと思います。となると、学生は顧客だという論になるのではないでしょうか。
授業をどのように進めて行くのかは「組織=学校」が決めることでしょう。また、授業の内容についてアンケートを取ることもあるでしょうけれども、あくまで、「顧客の声」という程度の関わりだと思います。
かつて天王寺にあった2つの大学ではかなり過激に自治権闘争もあったようですけれど、組織運営にまでは今も関わりきっていないと思います。
また、いろんな申請などもあるでしょうけれど、MSで管理するのは「提出された書類」の取り扱いであって、書類の書き方などは管理の対象外でしょう。お中元センターで申し込みをする顧客と同じ程度の位置づけではないでしょうか。
別の一面では、学生は学校に長時間滞在し、施設を使うと言う関わりがあります。時として自由に照明や空調を使ったり、水を使ったりします。また、クラブや自治会などでは、配布資料(紙)なんかも学校の施設を使って配布することもあるかと思います。理科系の学生実験では排水や事故も起こり得るという意味では、E,OHに深く関わってくるでしょう。かなりの部分で主体的にマネジメントに影響する存在だと思います。
それは、商店に自宅ゴミを持ちこむ顧客とは違うレベルで組織へ関わることになってくると思います。
SRについても、メディアに出る時などは、組織に所属している一員として出てくることも多く、結果応分の責任があると思います。スポーツのインタビューでの発言も個人ではなく、組織の一員、代表として扱われると思います。
これは、いくら外商が使えるくらいのご贔屓になっていたとしても、顧客が商店の一員とは扱われないのとは違う立場だと思います。
ということで、時代軸だけでなくって、組織内での役割が変化するために、マネジメントシステムのスコープの違いで学校における学生の位置づけが常に変わるというのが仔豚の論点でした。
<予備校にとっては、学生(予備校生)は100%顧客のように思います。
息子の進路相談を受けたんです。学校の担任の先生がおっしゃることと、息子が通う塾の塾長がおっしゃることとでは、データ分析力の点で雲泥の差がありました。
なぜこんなに差があるのかと考えてみると、塾のほうは「受験」という単品売りなので、それに経営資源を集中させて取り組めばいいのだけれど、学校のほうは「受験」というのは取り組み課題のうちの1つで、受験相談のほかに、人生相談もいじめ相談も就職相談も部活相談も登校拒否相談も引き受けなければならない。ですから、どうしても経営資源が分散され、個々の課題に対しては、それを専門的にやっているところには勝てません。
「受験」という単品売りと、「予備校の顧客100%論」は関係があるような気がします。
<時代軸だけでなくって、組織内での役割が変化するために、マネジメントシステムのスコープの違いで学校における学生の位置づけが常に変わるというのが仔豚の論点でした。
なるほど。絶対論でなくて、相対論であるところが、すごくイイと思います。
>「規格適用の多様性」って、リスキーで、いい言葉ですね。
以下、この一行だけへのチョー拡散RES(=訳の判らぬ独り言とも云ふ)です。
その「規格適用の多様性」は審査中のシンサインが積極的に保証するべきモノだと思います。 「たとえばこう回答すればテキゴー」だと自分で判っているのに「相手から答えが返ってこないからフテキゴー」などと考えるシンサインは論外ですし、「もしも相手がこーゆー回避行動を取れば自分の放った砲弾は相手に命中しない」というストーリーが描けないまま主砲を斉射するシンサインもイヤです。
シンサインに最も必要なのは「高い指摘回避能力(=自分が受審側なら何が何でも弾丸に当たらない)」で、シンサインはその高い指摘回避能力を「自分が審査している受審側を自分の指摘から守ること」に発揮すべきでしょう。 大昔にいそいその艦長が提言していた「審査弁護人」を受審側が雇う必要はありません。その組織の担当シンサインが兼務すればいいのです。
以上、このスレの主題とも中尾さんの主張とも全く関係ない主張(弾丸の無駄遣い)でしたぁ。(^^ゞ
立花@なぜか最近、アニメ版”旭日の艦隊”に夢中
なんか「真空投げ」のようなチョー高級技のことを言っておられるのか、あるいは「相手が理解できる指摘をすること」というベーシックなことを言っておられるのか……う〜ん、よく分かりません。