「ソトコト」という月刊誌を読んでいると、いまの編集部の理論的支柱は「福岡伸一」だな、とわかります。月刊誌「アイソス」に、かつて「飯塚悦功」がいたり、「加藤重信」がいたりしたようにです。
さて、その福岡伸一氏(青山学院大学教授/分子生物学専攻)の著書『生物と無生物のあいだ』に、相関関係と因果関係の違いについて記述した興味深い文章が出てきます。
〈ある微生物が必ず病巣から検出されたとしても、この時点ではまだ嫌疑不十分なのだ。二つの事象、つまり微生物の存在と病気の発症とはあくまで相関関係にあるにすぎない。相関関係が原因と結果の関係、すなわち因果関係に転じるためには、もうひとつ次へのステップフォーワードが必要なのである。〉(30p)
マネジメントシステム関係者が是正処置をするときは、ただの相関関係を因果関係にまで持っていくための努力をするわけですが、いったいどこまでやるのでしょうか? 厳密には完璧な因果関係なんて見つからないのではないでしょうか? この問題について、池谷裕二氏(東京大学准教授/脳研究者)が著書『単純な脳、複雑な「私」』で、バッサリと次のように断言しています。
〈因果関係、つまり、原因と結果の関係にあるということと、見かけ上相関がある(ふたつの変数が連動する)ということは、似ているようで、じつはまったく違うんです。(中略)私がとくに強調したいことは、サイエンス、とくに実験科学が証明できることは、「相関関係」だけだということです。因果関係は絶対に証明できません。(中略)統計学は「相関の強さ」を扱う学問であって、「因果関係」を証明するツールではありません。だから、統計によって見出された「差」は、「そういう傾向がある」という以上の意味を持ちません。では、科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのでしょうか。答えは「私たちの心の中に」ということになります。〉(25-26p)
>厳密には完璧な因果関係なんて見つからないのではないでしょうか?
「経営には唯一の正解などない。よりよい選択があるだけだ」という主旨の格言があります。経営とは、限られた時間で限られた資源を行使するための実践的意思決定を行うことであり、ある事柄が100%(比ゆ的な意味で)真実と考えてよいかを決定するためにあまりに時間やコストがかかる場合、ある程度の確からしさを根拠に意思決定しなければならないということでしょう。
実際、激変する経営環境のもとでは、十分な確からしさが無くとも選択を迫られる場合だって想定されます。
しかし、「あることが真実か否かを確かめる事無しに意思決定することが一般的である」ということと、「あることについて真実は存在しない」ということとは別の事柄でしょう。
ある事柄が存在しているということは、何らかの因果関係が「客観的に」存在しているということと同義でなければなりません。しかし、それを十分に認識するための手間隙が投下できないために、認識が困難であるということがここでの問題ではないでしょうか。
>では、科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのでしょうか。答えは「私たちの心の中に」ということになります。
「自然には原因もなければ結果もない」「因果法則のすべての形態は主観的衝動から発する」… これは今から110年ほど前にエルンスト・マッハ(音速をマッハで表示しますが、彼の名前にちなんだものです)が著作の中で述べた見解です。
これは哲学的にはとんでもない誤りですが、簡単に説明する力量が私にはありません。二つだけ触れておきます。
1)「私たちの心の中に」ということの不合理 … 貴方にも私にも同じ因果関係が認識されるとしたら、その源泉は「私たちの心の中」以外のどこかにあると考えざるを得ません。
2)個別自然科学の結論を超えた世界観の問題(例えば因果性は客観的に存在するのか、それとも主観的産物か)を検討するためには、この問題をめぐって哲学史のなかでどのような検討がされてきたのかをフォローする事が不可欠でしょう。
とかく、そもそも世界とは、とか、そもそも人間とは ・・・ 等という「一般論」は簡単に語られる傾向がありますが、このような問題こそ「そんなに簡単に語ることができない」ということを胆に命じる必要があると思います。
とある事務局担当者さんへ
<ある事柄が存在しているということは、何らかの因果関係が「客観的に」存在しているということと同義でなければなりません。
池谷裕二氏はたぶん、上記のこと自体を否定しているのでしょう。科学的に因果関係は導き出せない。ゆえに、「因果関係」は人の心の中に存在する、と。ですが、池谷氏本人も著書において、日常生活ではそこまで厳密に問わなくても、問題はほとんどない、ただ、科学の現場ではそうなのだ、としています。
<しかし、それを十分に認識するための手間隙が投下できないために、認識が困難であるということがここでの問題ではないでしょうか。
日常の経営の世界では、おっしゃる通りだと思います。経営資源は限られていますから、その範囲内で認識できるところまで行くしかありません。
家元です。
中尾さんにリクエストです。
>マネジメントシステム関係者が是正処置をするときは、ただの相関関係を因果関係にまで持っていくための努力をするわけですが、いったいどこまでやるのでしょうか? 厳密には完璧な因果関係なんて見つからないのではないでしょうか?
このテーマを次回是正処置ワークショップ(10月3日)でお話いただけないでしょうか。
ブログとワークショップの協業、ということで、
ぜひ、よろしくお願いします。
家元さんへ
了解しました。
家元です。
中尾さん、ありがとうございます。
よろしくお願いします。
実は、師範はコメントをつけようとしたのですが、
「重すぎる、言いつくせない」内容になってしまったので、
いったん断念した経緯があります。
WSでは、道友や師範、・・・もちろん私も・・・
このテーマに即した”ネタ”を用意するつもりです。
かなり、楽しげな議論になるものと期待しています。
>マネジメントシステム関係者が是正処置をするときは、ただの相関関係を因果関係にまで持っていくための努力をするわけですが、いったいどこまでやるのでしょうか? 厳密には完璧な因果関係なんて見つからないのではないでしょうか?
でしょうね。
大昔,会社のリーダー研修の一環として,この「相関」と「因果」のセミナを受けたような記憶があります。もしかしたら問題解決のセミナーだったかも知れませんという,うろ覚えですが(^^;)
覚えている範囲で要約すれば,
・何らかの不具合があってその原因を探る場合,
まずはデータを取ってみよう。
・そのデータから,相関があるのか否かを見てみよう。
例えば相関係数を出してみるわけですが,とはいっても相関係数
がいくつなら相関関係がある/ないの基準はありません。
そのサンプルの性質から「相関関係があると言えるだろう」で判断
することになります。
・そして「相関がある」と判断したものについて議論しよう。
相関がないとなったものは,考える必要はないので捨てましょう。
・更に「因果関係」について考えよう。
その結果,「因果関係がありそうだ」となれば,
それを優先に考えよう。
この,「因果関係がありそうだ」の考え方として,「逆も成り立つのか」という論法を示していました。例えば「風が吹けば桶屋が儲かる」の逆は成り立つかということで,この場合,相関関係はあっても因果関係はないってことになるという話に。
で,何が言いたいのかと言うと,
是正処置をするとき,ただの相関関係があるものに対して因果関係についても考えはしますが,「因果関係にまで持っていくための努力」なんてするんでしょうか?
そして,「完璧な因果関係」を見つけようとしているんでしょうか?
私にはこの記事そのものが「ホンマかいな? そんなヤツおらんやろう」でした(^^ゞ
上述したように,
相関関係:結果的に ある/ない で判断するも,
そこは経験などが介在する。
因果関係:ありそうか否かを考えはするが,
因果関係を証明することなどしない。
というのが一般的な対応なんじゃないかな? と思ったので。
余談:元記事の「因果関係」の話で仏教を連想してしまいました(^^;)
GAIさんへ
<「因果関係にまで持っていくための努力」なんてするんでしょうか?
ちょっと大げさな書き方をしたのかもしれません。この「努力」の意味は、「相関がある」と判断したものについて議論しよう、相関がないとなったものは考える必要はないので捨てましょう、更に「因果関係」について考えよう、その結果,「因果関係がありそうだ」となればそれを優先に考えよう、ということです。
<「完璧な因果関係」を見つけようとしているんでしょうか?
数理的な完璧性など、もちろん求めていないでしょうが、心情的には完璧であろうとしているのでなければ、「真因」とか「根本原因」とか、さも「本当の原因を見つけた!」って感じの言葉は使わないのではないでしょうか? こういった言葉には、「完璧志向」の臭いがするんですが・・・しない?
<因果関係:ありそうか否かを考えはするが、因果関係を証明することなどしない。というのが一般的な対応なんじゃないかな?
「是正処置報告書」ってのは、因果関係をある程度証明していないとダメなんじゃないでしょうか? GAIさんの言ってる「証明」というのが、数学の証明問題のような意味での「証明」なら、確かにそのような証明はしないでしょうけど。それと、ここでGAIさんが言っている「一般的な対応」というのは、「GAIの対応」も含まれる?
まずは第一パラグラフの部分は特に書く必要はないということになりますね。
ただ,中尾さんの意図がこうであったのなら,何で以降のような話になるのかと,少々矛盾を感じますが,これはあえて触れないことにします。
では,第二パラグラフの部分,
<数理的な完璧性など、もちろん求めていないでしょうが、心情的には完璧であろうとしているのでなければ、「真因」とか「根本原因」とか、さも「本当の原因を見つけた!」って感じの言葉は使わないのではないでしょうか? こういった言葉には、「完璧志向」の臭いがするんですが・・・しない?
ナゼナゼのような原因分析のねらいは,分析することによる問題の掘り下げですよね。しかし掘り下げたからと言って,<完璧なまでの「真因」「根本」「本当」の原因>なんて特定できるのでしょうか? 近づくことはできても,到達するのは困難ではないでしょうか。というのも,いろんなもの(人間の意志/思考を含む)が絡んだり関係したりしている中で発生した不具合に対し,「認識不足,忘れた」等は根本原因とは言えないということはできても,「これこそが「真因」「根本」「本当」の原因です」なんて誰もが納得するものが特定できるのかという気が私にはします。
たいていは組織が,現場が,納得できるところ(落としどころ,または妥協案(^^ゞ)をもって決定し,原因分析をしましたとなるのではないでしょうか。
というのも,実際に不具合が発生した現場をベースにして考えれば,是正処置のねらいが達成できそうな処置が取れるであろうレベルまで分析できていれば(まずは)よいのです,現実には。会社などが活動している中では,限られた資源と時間しか使えませんから,「これこそが「真因」「根本」「本当」の原因です」なんてやっていても,処置など進まないでしょう。そんな状況下で行うわけですから,言葉の意味する「真因」「根本」「本当」ではなく,掘り下げた結果としての,是正処置のねらいが達成できそうな処置の取れるであろうレベルまでの分析結果となっていれば,それで「「真因」「根本」「本当」の原因を見つけた!」って言うことになるでしょうね(というか,そうなるしかないでしょう)。
中尾さんは「心情的には完璧であろうとして」という努力的な表現をされているので,そういう意図で書かれているのではないのかもしれませんが,何となく机上で考えたことでしかないように読めました。
そして最後のパラグラフですが,
<「是正処置報告書」ってのは、因果関係をある程度証明していないとダメなんじゃないでしょうか? GAIさんの言ってる「証明」というのが、数学の証明問題のような意味での「証明」なら、確かにそのような証明はしないでしょうけど。それと、ここでGAIさんが言っている「一般的な対応」というのは、「GAIの対応」も含まれる?
さて,是正処置のねらいは何でしょう? 再発防止ですよね。
現実をベースに考えれば,まずは原因を分析(掘り下げ)し,ものになりそうな処置を見出して計画を立てる。しかしこの段階では「再発防止が図れるであろう」な状態でしかなく,再発防止になったか否かはやってみなければわかりません(問題の大きさにもよりますが)。報告書の原因分析が「因果関係をある程度証明」と読めるような記述になっているか否かよりも,「この処置でうまくいきそうか?」の方に関心が行っているはずです。
そして処置を実施し,その結果に対する有効性の評価で再発防止できました(実際には「これまでの結果ではできています」「当面はできるでしょう」あたりでしょうが)な判断で終了となります。
では,「是正処置報告書」ってどんなことが記録されてないとダメ?
是正処置をとりました(終わりました)という結果が,再発防止につながるよって言う部分ががあれば,確かに是正処置であったなぁという判断はできるでしょうし,納得するでしょう。しかし原因分析のところで「因果の(ある程度)証明」について,どこまで拘るでしょうか? そんな記述があったからと言って,それだけで納得できますか?
「この是正処置報告書は,原因分析で因果関係をある程度証明したという記述が無いからダメです」
って聞きませんよね。
「この是正処置報告書は,再発防止できたことを示す記述が無いからダメです」
ならよく聞きますが(別の報告書に書いてあるというのはオイトイテ)。
まあ,この「ある程度証明」の意図が何かにもよるんですが,そんなことよりも,再発防止になったか否かが重要であって,因果の(ある程度)証明なんて,ほとんど気にする人は居ないんじゃないでしょうか,現場や現実の世界では。
因果って,是正処置や原因分析の学術的な話では意味があるでしょうが,現実に大きな問題が発生して処置を取るってなったとき,会社としては「最低の投資で最大の効果が得られる処置」が一番意味のあるものなのかもしれませんね。
GAIさんへ
<実際に不具合が発生した現場をベースにして考えれば,是正処置のねらいが達成できそうな処置が取れるであろうレベルまで分析できていれば(まずは)よいのです。
完璧な原因追究なんてキリがないだろうから、どのへんで手を打つのかなと思っていたのですが、「是正処置のねらいが達成できそうな処置が取れるであろうレベル」が落としどころなわけですね。GAIさんにとっては常識レベルかもしれませんが、私にとっては「なるほど!」なのです。
<言葉の意味する「真因」「根本」「本当」ではなく,掘り下げた結果としての,是正処置のねらいが達成できそうな処置の取れるであろうレベルまでの分析結果となっていれば,それで「「真因」「根本」「本当」の原因を見つけた!」って言うことになるでしょうね。
「真因」「根本」「本当」っていう言葉は、そうか、そういう意味で使っていたのか、という感じです。これも納得しました。GAIさんにとっては常識レベルかもしれませんが、私にとっては「納得!」なのです。(ちょっと、しつこい?)
<何となく机上で考えたことでしかないように読めました。
アタリです。私には現場体験がありませんから、常に机上の思いつきです。なので私の話は、通常、プロの方は取り合ってはくれません。相手にしてくれるのは、ほんの数人の方々です。GAIさんも素通りせずに、よくぞ答えてくれました。
で、机上の中尾にもう少しおつきあいください。
<報告書の原因分析が「因果関係をある程度証明」と読めるような記述になっているか否かよりも,「この処置でうまくいきそうか?」の方に関心が行っているはずです。
因果関係をある程度証明した記述と、この処理でうまく行きそうなことが書いてある記述、この2つは本来、「どっちが大事か?」「どっちが優先課題か?」って選ぶ対象ではないと思います。因果関係をある程度分析してから、じゃあ、こうやってみようと考えて、処置を打つ。その処置がうまくいかなかったら、もう一度原因を洗い直してみて、また次の処置をやってみる。つまり、プロセス上、違う段階にあるものでしょう。もちろん企業ですから、結果大事なので、結果が評価される、つまりうまく行きそうな処置をすることがまずは評価されるでしょうが、その評価を得るための前工程として因果関係のある程度証明が必要なのでは? ここで言う「証明」というのは空理空論ではなくて、再発防止につながるような因果関係の証明ですけど。